VOTES_FOR_WOMEN

どうして女性が怒ることは許されないのでしょうか -映画「未来を花束にして」(原題「Suffragette」)を観て-

2017年1月27日に日本で公開された映画「Suffragette」(意味:闘争的女性参政権活動家)の邦題が「未来を花束にして」となり、本国の公式サイトでは「彼らは女性参政権獲得のためなら全てを失うことも厭わなかった。仕事、家、子ども、命」とある説明が、日本の公式サイトでは「思想も教養も富もない、私はひとりの母親。ただ我が子のその手に、希望をつなぎたかった」となっていることについて、まるで女性の自分たちの権利のために戦っている姿が良くないものとされているような気がして怒りを覚えました。私がこの映画を観たとき、主人公のモードは将来の誰かや自分の子どものためでなく、幼少期から性暴力を受け、正当な賃金を払われることなく一生過酷な労働に従事し続けなければならないであろう自分自身を救うために女性参政権の必要性を訴えていたと感じたからです。

女性が怒るのはとても難しいことです。怒るというのは当然の感情なのに、それを表に出すと「みっともない」「我慢強くない」と言われます。不当に扱われ、自分にとって大切なものが侵害されたとき、怒りたくなるのは女性だって同じです。しかし、世間からそのようなことを言われているうちに、社会的地位の低い自分がわがままや贅沢を言っているような気分になり、怒りを表に出すよりも、それを呑み込んで何事もなかったかのように過ごす方が楽に生きられるような気がしてくるのです。この作品は、そういった葛藤を経て覚悟を決め戦った女性たちの物語だと捉えられました。もちろん男性も同じような状況に陥ることはあると思います。しかし、男性の社会運動への参加を描いた作品に、「未来を花束にして」という邦題は付けられるのでしょうか?我が子のために戦ったことにされるのでしょうか?

男女平等が日本の慣習に合わないというのであれば、どうしてそれを変えようとしないのか。問題を先送りにして目を瞑ることはそんなにも美しいことでしょうか。それによって得られる平穏は強者だけにとって心地良いもので、壁を感じる者からすれば不満は募るばかりだというのに。

最近、戦争を表した映画が「戦争映画なのに怖くないところが良い」といって評価されたり、自分たちは差別される対象の人種であるにもかかわらず差別主義の権力者一家のことを華やかで素敵だと崇めたりする一部の風潮に不安を覚えます。私たちに、恐ろしい現実から目を背けている時間が残されているとは思えません。「まだ大丈夫」と思わずに怒りで環境を変えられたら、職場で尊厳を傷付けられた女性が仲間に相談をしたときに、救える命もあったのではないかと考えます。